ぐたり、布団にもつれこんで背を伸ばす。首の骨がぺきぱきと妙な音立て長時間の労働に鳴いた。目蓋はひどく重く、右腕はほとんど麻痺している。締め切り明けはいつだって、こんな調子だった。横ではトントンと、出来上がった原稿を机でそろえている音がする。午前四時まで僕を酷使した鬼の担当、恨めしくてうっすらと目蓋を持ち上げにらめばにこりと笑った。

「お疲れさま平丸くん、今回もすごくいいよ」
「・・・そう思うんなら一週間くらい休みをくれたっていいじゃないですか」
「今は疲れているからそんな風に思うんだよ、起きたら気が変わるさ」
「変わらない方に今週の原稿料を全部かけてもいい」

うんざりと言ってまた目を閉じる。不眠不休の眼球はなにより睡眠を求めていた。頭がぼうっとしてくる。頭の上では立ち上がったらしい吉田氏の声が聞こえた。

「朝ごはんなにか作っていこうか?」
「いい、食べたくない」

そう言ったのに吉田氏は、起きてからお腹すくだろう? といって、なににしようかなあなんて考えている。僕はいいかげん働き疲れて苛々していたから、むしゃくしゃと言い捨てた。

「・・・原稿は終わったんださっさと帰ってくれ」
「まあそう言わずに」
「いやだいやだ、声も聞きたくない」

苦笑が小さく耳に届く。吉田氏は僕の我儘に困り果てるとこういう笑い方をした。母親が子どもに呆れたときのそれのような、笑いはなんだか癪だった。

「吉田氏なんて顔も見たくない、担当が替えられればいいのに」
「・・・まあそう上手くはいかないものだから」

じゃあ今週ももらって行くよ、そう言って吉田氏は部屋を出て行った。なんとなく違和感があったような気がしたが、眠かったからさして気にはしなかった。


目覚めればいいと言ったのに、吉田氏はお結びをふたつ作っていったらしい。食卓にラップを巻かれちょこんと置かれていた。頬張れば鮭とツナマヨ。僕の好みを把握しているところも気に入らない。原稿の終わった日の次の朝、というか昼が吉田氏の食事で始まるのは、ほとんど暗黙の了解だった。

そうして平らげてからまた作業部屋兼、臨時の寝室にもどる。今週の打ち合わせの電話がそろそろかかってくる時間だった。机に放ったままの携帯は僕が部屋に足を踏み入れるとピカリと光って呼んだ。開けてみれば新着メール、今週の大まかなスケジュールが送られてきていた。電話じゃなくてメール、めずらしいと思いながら閉じる。(さて今週はどこのお宅に逃げようか)

しかし異変はその日から始まった。

用件はすべてメール、一日三回掛かってきていた電話はゼロに、極めつけに、僕が新妻くんのマンションに逃げ込んでも諭すメール一通と、お世話おかけしてすみませんの侘びが新妻くんに一通。

苛々した。むしゃくしゃした。べろべろになるまで酒を飲んだがしょうがないなと介抱する担当もとなりにはいない。起きてみても肩には毛布がかかっていないし、朝ごはんも待っていない。躍起になって煙草を一日一箱開けてもただ壁の染みが増え僕の死がゆっくりと近づくだけである。暇だったから気晴らしに原稿をやったらそれさえ終わってしまった。

放置が始まって六日後の夜、僕はとうとう耐え切れず着信履歴を開いた。コール三回目ようやく、吉田氏は出た。

「吉田氏、吉田氏なにしている、」

聞いたのに電波の向こう、返事はない。外にいるのか、ただ雑音が遠く耳を掠めるだけである。何度も呼んだのに吉田氏は答えることも、切ることもしなかった。僕はついに激昂した。

「なんで電話してこない、なんで家に来ない、なんで、なんで追いかけてこない! おい、・・・おい聞いてるのか吉田氏!」

たたきつけた声、ようやく、吉田氏は言った。

「・・・・・原稿今からとりに行きます、平丸先生」

ツー、ツー、いつのまにか電話は切れている。携帯は僕の手から滑り落ちていた。

(平丸先生って、・・・『平丸先生』って、なんだ、)


久々に見た吉田氏は困ったような顔で、会釈をした。
久々、といってもたったの一週間ぶりなのだが以前は毎日のように電話をしたり連れ戻されたりしていたのだから、なんだか一月も会っていなかったような気分になる。というか、来たら思いつく限りの悪口雑言を投げつけてやろうと思っていたのにそんな顔をされては拍子抜けだ。何も言えず、迎えた玄関で立ち尽くしていると吉田氏が気まずげに、原稿、終わったかな、と聞いた。黙ってうなずいて、作業部屋に足を向けた。

今週分の原稿に目を通し、うなずくと吉田氏はさっさと畳から腰を上げようとした。あわててその腕をつかむ。

「吉田氏、帰るのか」
「ああ、わるいが忙しくてね、」
「・・・朝ごはん、作っていかないのか」
「いらないんだろ?」
「っそんなこと!・・な、ない、」

ぎゅうと、つかんだ腕に力をこめると吉田氏はようやく、まっすぐと僕を見た。

「・・・・・すぐには難しいけど、替えてもらえるように、上に言っておくから、担当」
「! な、なに言ってる、吉田氏、」
「替えて欲しいって、平丸先生が、言ったから」
「っ・・! 平丸先生なんて、呼ぶな・・!」

(なんで、なんでそんな、泣きそうな顔、してる・・・・!)

笑っているくせに眉はくしゃくしゃで、口元は小刻みに震えていてそして目は笑っていない。一週間前の自分の言葉を思い出し、僕まで泣きたくなった。

「吉田氏、吉田氏ちがう、替えて欲しいなんて本当は、本当はすこしも思ってない、・・・・・吉田氏が、いないと僕はだめだ、酔っ払ったら世話してくれないと困る、お結びだって昆布や梅を入れられたら困るし、いつだってしつこく追いかけて来てくれないと困るんだ、だめだ、吉田氏、僕から離れるな、・・・いやだ、だめなんだ・・・!」

泣いていた。後悔が背を圧迫しぼろぼろと止まらず、腕をつかんだ手にはほとんど握力も入っていなかった。顔が上げられない。目を合わせるのが怖かった。すると吉田氏がふいに、僕の顎をつかんで持ち上げた。指先に伝った水を僕の頬に擦りつけ、吉田氏はくしゃりと笑った。

「・・・平丸くんそんな言い方はずるいよ、本当に、ずるいなあ、」
「わ、わるいか! 吉田氏が、いつだって許すから、甘やかすから、いけないんだ・・」
「うん、ごめん」
「あやまるな、吉田氏」
「うん、ごめんな」

ふわり、腕が伸ばされ抱きしめられた。膝立ちの吉田氏が、肩口に顔をうずめ背をぽんぽんとたたく。白いシャツにしがみついた。

「・・・吉田氏なんか、嫌いだ」
「うん」
「嫌いだ、大嫌いだ」
「・・うん、」
「っ・・・いいか僕は、ほんとうに吉田氏なんか、」
「平丸くん」
「え、」
「キスしようか」
「! なっ、ちょ、んん・・!」

乱暴な動作だったのに触れた体温はひどく安心して、肩の力がかくりと抜けた。数日を埋めるように長いあいだ、ゆっくりとキスをしていた。しばらくしてやっと、吉田氏が唇を離す。体温の混ざった舌がはふ、と呼吸をした。困った顔で笑っているのは、見なくてもわかった。

「あーあ、まずいなあ、担当が作家に手を出すなんて」
「なにいってる僕は駄目な作家だ、駄目な担当くらいがちょうどいい」
「・・・・うん、そうだな」

じゃあもういっかいキスしよう、そう言って吉田氏は笑った。僕は黙ってそっぽを向いた。

(2009.0715)