作業部屋に入るなりするすると脚に巻きついてくる腕、あいにくと今日は引き剥がす両手が空いていなかった。いつもの反撃に出ない俺を見上げた平丸くんが、あ、とつぶやく。目線、俺の右手、地味な男が持つには立派すぎる薔薇の花束が綻んでいる。いっそ清々しいほどの赤じっとながめた平丸くんはぐしゃり眉根に皺よせて、女性ですかと不審げに聞いた。(きみは俺がそんなにもてないと思ってるのか失礼な!)

「いや、今日誕生日だったから、編集部のみんながね」

雄二郎なんか両手で持たせて写メ撮ってたから、ただの体のいいひまつぶしなんだろうけど。(もちろん後で蹴り飛ばした)まあ冗談半分とはいえもらったものだからそう粗末にはできない、仕方なく会社帰りここまで持ってきた。

平丸くんはしばらく目先の薔薇を指でいじっていた。どうかしたのかと聞けばゆっくりと首を横に振る。

「…お腹が空いたので早く夕飯作ってください」
「あ、うん」

よろよろぽふり、だらしなく敷きっ放しだった布団に背から飛び込んだ平丸くんはしっしっと、追い払うように手を振った。(お前、俺のこと家政婦と勘違いしてるだろう。…足の小指踏んでやろうか?)


夕飯はあっさり湯豆腐とまぜご飯。新米のおいしい季節になってきたからいつも以上にぱくぱくと平丸くんは食べた。食事中の会話はなくうまいだとかまずいだとかもないが炊飯器はキレイに空になった。気分はわるくない。

食べ終えるとムードもへったくれもなく平丸くんはカチャカチャと、台所に立つ俺のベルトに手をかけた。いつものことだけれどもうすこし、恥じらいとかそういうものを持ってくれればいいのにと思う。まあ恥じらう平丸くんなんてそれはそれで気持ちがわるいのだが。

そして洗いものを放置してもいいように皿に水を張る自分も結局、この男を拒んではいないのだ。誘う瞼を指で撫で、その肩を床にトンと、押した。


そうして行為が終われば狭い風呂で処理をして身体をぬぐってやり、てきとうなシャツを着せて髪を乾かし、作業部屋の布団まで運ぶのが常だ。今日もいつもと同じよう、細い、骨のような身体を引きずって行った。眠さと疲れているこのときだけは素直に、俺の腕にすがる平丸くん。いつもこうならいいのにと運ぶたび思う。(無理か)

蛍光灯、内側の橙だけが照らす薄闇の下、薄っぺらい布団に寝かせれば掛け布団を独占しようとするのが平丸くんの趣味で、かといって俺がもうひとつ布団を出せば恨めしそうな目で見るからつまり、もっと自分のそばにこいという暗黙の要求なのだと今ではわかっている。面倒くさい癖に小さくため息を吐きながら細身を布団に寝かせた。

が、今日。今夜に限って彼は、掛け布団を独り占めしようとはしなかった。端で身を丸め、こっちに来るなと言わんばかり、俺は布団の横、首を傾げる。

「平丸、くん?」
「…なんですか眠いので手短に」

不機嫌な声はそっぽを向いている。なにか機嫌を損ねるようなことしたかと思考めぐらせていればその平丸くんの視線の先、あの薔薇の無造作に置かれていたのに気がついた。そうだ料理をつくるからと置いていったのだ。そういえば布団挟んでこっちにもいくらか香る。やわらかな、けれど豪奢を主張する深紅の香り。

考えていると鼻をすする音が部屋に響く。ふと見ると平丸くんはほとんどうつぶせで背を向け、右腕を両目に重ねていた。不自然にあ、と気がつく。

「泣いてるの?」
「! そ、そんなこと、」

否定しようとした声は裏返る。本当にわかりやすい、解しやすい男なのだ。(そうつまりひどく単純)なんだ、なにを泣いているいい年した男が。聞けばただ埃が目に入っただけだという。(嘘をつくな馬鹿丸め、昨日ハタキをかけたばかりだぞ)


問い詰めれば背中を丸めてぽつりという。誕生日なんて知りませんでした。だてに平丸くんを飼い慣らしていない。俺は一言で察した。

「なんだ平丸くん、それでしょげてたのか」
「……べつに、落ち込んでなんかいませんよ」
「そうか、ごめんな」
「落ち込んでませんってば」
「うん、ごめん」

いいかげん眠いです、声が怒るから細い紐引いて真っ暗。夏の軽い布団にごそごそもぐりこんで目を瞑りしばらくすると平丸くんは言った。誕生日っていうのは数日前から自分で主張してプレゼントをねだらなきゃいけないんですよ吉田氏、当日に突然言われたんじゃなんにも贈れないでしょ。だいたい他の人間が僕より吉田氏を知っているのが気に食わない、から始まってすこしの間、平丸くんのねちねちした文句はつづいた。不思議と腹は立たなかった。明日も仕事なんだからもう寝ろというと平丸くんはようやくいつものように、布団を自分の方に引き寄せた。寒いよ、ちょっと笑って、腰を抱き寄せた。ほんのりと薔薇の匂いがした。(そうだ明日起きたら、花瓶に飾ってやらないと)この小汚い作業部屋に大輪の薔薇はさぞシュールだろう、想像するとおかしかった。


「そうだ、明日誕生日のケーキ、買ってくるからね」
「…吉田氏の誕生日じゃないですか」
「あそうだったまあいいや、平丸くん食べるだろ?」
「…食べますけど」
「じゃ、それでいい」

(大事なのは隣に、わざとしかめつらした平丸くんがいることだから)


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今日、ひとつ年上になるお友だちに贈ります


(2009.0927)