カシミヤのマフラーだけ巻いて煙草を買いに家を出ると、階段を下りた先でお隣の山崎さんと会った。三十代半ばとは思えない若さの主婦は僕を見つけるといくらか慌てたようすで話しかけてくる。

「こんばんは平丸さん、あのねえうちのシュンなんだけど、どこかで見ていない?」

シュンというのは山崎さんちの一人息子で、たしか今年小学校三年だか四年だかになったはずだ。ただしい漢字はしらない。父親似のさっぱりした面立ち、年にしては小柄で、あまり騒いだりすることのない、地味な子どもだった。外で会えば控えめではあるが挨拶はしてくるから、よくしつけられているのだろうという印象を持っていた。

すみません今日はこもっていましたのでと答えると、遊びに行ったきり帰ってこないのよと困り顔がかえってくる。すこしずつ日が伸びてきたとはいえ五時にもなれば二月、もう闇に赤の差している空だ。これから凍るような夜がやってくる。母親からすれば心配だろう。買い物に行きますのですこし気をつけて見てみますよ、アパートの駐輪場に立ち尽くす山崎さんに告げて、狭い道路に出る。シュンくんはおそらくカギを持っていないのだろう。探しに行きたくても行けず、心配でただ外に立つ親の心子知らず。

しかし結局は他人事だ。遠くに焼き芋屋の声を聞き、もしどこかで行き会ったら一本買ってかえろうなんておもいながら、冬風荒ぶ道をゆく。アスファルトを跳ね返った風は土に当たったそれより冷たいのだとは、東京に来て初めて知った。

一番近い自販機は歩いて二、三分ほどのところにあったのだが、今日はわざわざ白髪の婆さんのやっている煙草屋まで買いに行った。自販機からは、角を二つ曲がって五百メートルほど。気にしてみますよといった僕の良心の最大範囲である。しかし子どものよくいる公園の前もとおりすぎたのに、シュンくんの姿はなかった。凍え損だ。

どこで買っても味のかわらないマルボロライトを吸いながら、アパートへたらたらもどると山崎さんはまだ立っていた。遅いですねと声をかけるとため息をついて、それからふと、僕を見上げた山崎さんは言った。

「平丸さん申し訳ないんだけど、カギ預けるから、ちょっとうち、みててもらっていいかしら? きっとコウタくんたちと空き地で遊んでるんだと思うの、すぐに連れて帰ってくるから」

ほとんど化粧もしていないのに大きな丸い目、人妻とはいえかわいらしい山崎さんに頼まれて嫌といえる男がいるのなら僕は謹んで煙草の灰をその革靴にの上に叩き落して差し上げたい。吸いながら待っていますから慌てなくていいですよと見栄を張って、カギを受け取った。家族で撮ったプリクラの貼られた薄べったいキーホルダー。にこやかな親子三人の姿を見ればいくら僕が人妻ものののAVが好きな人でなしで、山崎夫人が美人であっても、手は出せない気持ちになるのであった。


古い共用階段に座って冷たい二本目を肺に吹き込みながら、藍色の覆いはじめた空を見ていた。原稿は半分ほど終わったところで、今週はめずらしく、締切にはまだ余裕があった。昨年末から転職のために忙しく暮らしていたが最近になってようやく、十九ページへの息切れがましになった。意識不明寸前から、過度の酸欠状態になったくらい、良化ともいえないほどの、変化だけれど。

最初はうるさく二○一を訪れていた吉田氏も、近頃は訪問の頻度がいくらか減った。他にも担当作家を抱えていると聞いている。今頃ちがう誰かの背を鞭打っているのかと思うと、じぶんのところにいないのは喜ばしいはずなのに、なぜか、煙草がおいしくなくなった。口が疲れて、面倒くさくなってアスファルトに踏み潰した。大家さんに見つかれば怒られそうだが今日はめずらしく、いい隣人をやっているのだ少しくらい、大目に見ていただきたい。風に乗り、指先にわずか散った灰ののこりを払っていると青い夕陽に揺らぐ影がある。顔を上げれば親子が手をつないで帰ってくるところだった。立ち上がると目の合った山崎さんがきびきびと会釈した。そばまでやってくると苦笑していう。

「ごめんなさいね平丸さん。シュンったら、ずうっとかくれんぼをしていたんですって。ほらこの子小さいじゃない? それで、全然みつからなくってお友だちが困っていてね、私が、こらー! シュンー! って」

怒鳴ってやったわうふふふふ、楽しそうに口元をおさえ山崎さんは笑う。なんにせよ無事でよかった、言いながら家のカギを返すと、受け取った山崎さんはうなだれる子の頭をぽんとたたく。シュンくんは両手で抱えていた紙包みを、僕にむかって差し出した。よく見ればふたつあったようで、そのひとつをなんだろうと思いながら持ち上げると、あたたかい。いいにおいがする。

「――あ、もしかして、」
「焼き芋、おいしそうだったから買ってきちゃった、寒い中どうも、ありがとうございました」

ほらシュンも。親子二人頭を下げ、やあいいんですよと僕がいい、すこし世間話をして、僕たちはそれぞれの家にもどった。身体はすっかり冷えていたが、そのせいで腕の中のあたたかさがよけいにしみた。マフラーを解いて居間に入って開けてみると、ほかほかの芋が、二本。思っていたより、大きい。

これはひとりで食べきれるだろうかと悩んでいると、背の低い机の上、携帯が光っているのに気がつく。そういえば今日は、たしか、吉田氏が原稿をチェックに来る日ではなかったか。しょうがないせっかくの好意を余らせるのもなんだから、一本くらい、分けてやってもいい。そんなことを考えながら携帯をひらいた。目が点になる。

『ごめん今日はいけない原稿やっといて』

人が、たまに、やさしさをみせてみれば、これだ! まったく空気の読めない! イニシャルからしてKYなのだから吉田氏め! 小指の爪をどこかにぶつけて割れ! 無言で悪態をついて携帯を乱暴に閉じる。むしゃくしゃして食べた焼き芋は、あったかくて、ほくほくしていて、うまかった。吉田氏はこの焼き立てを食べることができないのだとおもうと、よけいに、うまかった。

もう一本は紙袋に入れたまま放置して作業部屋にもどり、敷きっぱなしのだらしない布団にもぐってだらだらだら。満腹サボタージュ、万歳。来ないとわかればまじめに原稿をする気も失せてしまった。(もとからほとんど、ないのだけれど)

しだいにうとうとする世界でふと、手をつないでいた親子が頭をかすめ僕はひらめいた。

(そうか、逃げればいいのだ)

山崎さんは子どもが帰って来ないから捜しに行った。そこにあるものを人は探さない。つまり、逃げれば吉田氏は追ってくる。だったら僕は逃げればいい。そうだ、明日、逃げよう。

そう思うとにわかにわくわくしてきた。久しく感じていなかった遠足の前日の、あの気分に似ている。(逃亡にはなにが必要だろうか、携帯はおいていかなければ、財布と煙草をもって、それから――)弾む気持ちは加速してどんどん大きくなっていく。明日をこんなに楽しみにおもったのは、いつぶりだろう。

追いかけてきたら、てきとうなところで捕まって、ふたりで家にもどってそうして、すっかり硬くなった焼き芋を押し付けてやるのだ。なんと楽しい逃亡計画であろうか。ああ、はやく、


(あしたがくればいいのに)


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平吉でも&でもよかったけど、なんとなく吉平
吉田が母だから。自分では、けっこう気に入っている

(2009.1126)