苦い色、といえば伝わりそうな濃茶、ドアの前から点々と、コンクリートに散り鉄筋の階段を通ってそうしてアパートの敷地を出ても、まだ、続いている。確信はないが、コーヒーかなにかだろう。

ぽつ、ぽたり、ぽっ、垂れる音が聞こえてくるように、ほとんど等間隔に散った水滴はまるで、足跡は残して行くからね! 見つけてよね! と主張しているようだ。唇の端が、引きつるのがわかった。耳元ではもう聞き疲れてしまったツーツーという電子音が神経を逆なでている。ブチリ、つながらない電話を切って、握り締めた。逃亡とは、いい、度胸をしている。(俺は四時に来るって、言ったよね? 平丸くん)

握りつぶしてしまいそうで、携帯は手提げにしまった。スニーカーの靴紐を結び直す。逃亡作家を追いかけるのも担当の仕事だった。しゃんと立ち上がるとぽつり、指先をたたく感触がある。一滴したたればあとはもうあふれるように、アスファルトにひとつまたひとつ、ゆっくりと、けれど確りとした早さで雨は、降りはじめた。俺は鞄を小脇に抱え、走った。鼻を刺す乾燥した冷気には水滴が混じって、寒さは、ますます、ひどくなった。

敷地を出ると足跡は左に曲がっていた。傘を取り出した母親が子どもの手を引くのを横目に、初心者探偵は雨打たれながら見知らぬ住宅街を走る。電柱をいくつか過ぎて、何度か角を曲がって、そうして大きな公園の前で、立ち止まる。

嗚呼天も見放したもうたか。

夕立はいともたやすくアスファルトの足跡を弾いて消してしまった、ジーザス。探しながら走るというのは案外気力を使うもので、ずいぶん、疲弊していた。水を吸ってすっかり重くなったコートの襟を片手で緩め、荒い息で酸素を吸って、呼吸を落ち着けながら鞄を開け、折りたたみ傘を取り出した。急ぐのにはじゃまだと思ったから差さなかったが、もう、限界だろう。弱い骨の薄べったい傘を苛々と広げ、毛先を伝う水を絞ってチノパンにこすりつける。ハンカチさえ面倒だった。

ひたいの汗をぬぐい、さて逃亡者はどっちに行ったものかと首を振る。むこうに行けばたしか、普段は使わないが小さな地下鉄の駅があったはずだ。バスという手段も考えられる。どっちだ。いくらか冷静になってきた肺をおさえながら思案していると、落ち着いていた呼吸は一瞬で、止まった。

(――あ)

広い公園を囲む深緑の木々の向こう、いくつも並んだ遊具のひとつ、アスレチックの中の小さな、小さな水色の土管に白黒の逃亡者はひどく、目立った。うしろから丸見えの、間抜けな逃亡者。(みーつけたとか、言っておこうか? …ますます寒くなるね、やめよう)


みぞれ混じりの雨粒はさっきまで穏やかに流れていた夕方をかき消して乱暴に緑葉をたたき、土を弾いて冷たい音楽を奏でる。火照った耳までしんと冷えたが、アスファルトが無機質に跳ね返す雨の音よりは、こっちの方が、好きだなと、ぼんやり思った。

アスレチックは複合型の、すこし大きなもので、滑り台やらつり橋、太い縄の編まれた網などがひとつながりになったものだった。まだ新しいものらしく、汚れはほとんどないように見えた。しかしながら子ども設計、やはりサイズは小さく、みっともない大人は身を丸めているようだった。

雨音は俺の足音まで覆って隠していたらしく、のぞきこんで声をかけるまで土管の中のバカは気がつかなかった。平丸くん。二度呼んで、びくりと、膝抱えていた男は顔を上げる。うろたえた表情は滑稽で、いくらか、気分がよかった。

「そっち詰めてよ、」

言いながら、傘をたたんで膝から入る。平丸くんはもぞもぞと奥につめたが、それからハッと気づいて不満そうに口を尖らせた。

「どうして僕がつめないといけないんです、あとから来たのは吉田氏だ」
「じゃあ俺をここに呼んだのはだれなんだい」
「っ! ぼ、僕は呼んでなど、」
「だいたいそんなコート一枚で、風邪を引きたいのか、きみは」

普段着のスラックスの上に薄手の白い、トレンチコート。まったくため息が出てしまう。

「…あんなわかりやすい、足跡のこしてきみは、なにがしたいの」
「な、なにって、べつに、その、」
「ああ足跡は否定しないんだ、やっぱりわざとこぼしてきたんだね」

ちちちちがいますよ、慌てて否定する彼と僕のあいだにはおそらく空の、缶コーヒー。証拠さえ丸見えの、まぬけな、まぬけすぎる、逃亡者。

「あー、いや、ちがうな」
「なにがですか」

(追跡希望者の、まちがいだったね。…あー、さむ)


帰り道はこの寒空逃げ出した愚かな漫画家に鞄も傘も持たせて歩いた。男二人で一本の傘というおそろしい状況だったがインフルエンザでひとりまたひとり消えていく編集部、班長の俺まで倒れるわけにはいかないし、漫画家が使い物にならなくなっても困るからだ。(苦渋の選択であったことだけは確りと、伝えておこう)

片方ずつ肩を濡らしながら歩いて、ようやく、アパートにもどる。バサバサのバスタオルにそれぞれくるまれとにかく居間のガスヒーターをつけ、食卓の前の座布団に座り込む。蛍光灯を点けて明るくなるとやっと、すこし落ち着いた。先風呂入ってきなよ、俺が言うと向かいに座った平丸くんはそわそわと立ち上がり、けれど風呂ではなく、つながった台所から、なにかを持ってやってきた。ついと差し出された茶色い紙袋、なんだとのぞきこめば焼き芋が入っている。しかし、包みは決してあたたかくない。

「焼き芋はあったかいうちに食べないといけないんだよ、おばあさんに教わらなかったのかい」
「もちろん、教わりましたよ」
「じゃあ、これ、」

怪訝に問えば目をそらして平丸くんは、ぽそりと言う。昨日は焼き立てだったんです。しばらく思考めぐらせて、俺はようやく彼の逃亡のわけがわかったような気がした。

「…ごめんな、昨日は、どうしても外せない打ち合わせがあったんだ」
「そうですか」

返事は淡々としていた。あくまで興味ない風に、平丸くんは頭をタオルで拭いている。しかたなく冷たい焼き芋に手を伸ばそうとして俺はようやっと、思い出した。畳に放った鞄をつかんで寄せる。

平たい鞄の中にさっき、不在を知って強引につっこんだものだから、だいぶ、つぶれてしまっている。ビニル袋に入れていたが鞄にもすこし匂いがついてしまった。

「平丸くん、やるよ」
「え?」

恐る恐る手のひら大の包みを受け取った平丸くんは中身をみて、大げさに眉をしかめてみせる。

「吉田氏、中華まんはあったかいうちに食べないといけないんですよ、知らないんですか」
「そりゃ、知ってるね」
「……勝手に逃げたことは、あやまらない。天気予報を見ず家を出たことについては、…すみません」
「うんいいよ、食べたらシャワー、浴びてきな」

ヒーターにぼうぼうとあたためながら食べた冷たいかたい焼き芋は、おどろくほど、うまかった。平丸くんはすっかり冷めたあんまんを、のこさず、食べた。



+++++++++
吉田視点でした
もしかしたらつづくかも? 未定です

(2009.1202)