さがさないでください。ありふれた文句だがやはり一番心情には近かった。一言書き置いてアシくんに「後は頼むよ」家を出る。

ボロアパートの軋む階段を下りると初夏に移りかわる日差しが燦々とまぶしく、シャツ一枚でも残った春風がさわやかで心地いい。

4月29日、みどりの日。世間一般は来るゴールデンウィークに胸弾ませる休日、圧政に喘ぐ僕は自由を求めてアパートの敷地外に一歩、足を踏み出した。嗚呼、素晴らしい自由の香りがする。開放感に諸手上げ天を仰いだ。自由、自由だーー! 叫び出したい衝動は耳をかすめたシッ、見ちゃいけませんにごくりと呑み込む。僕は歩き出した。

久方ぶりの自由を謳歌しながら、僕は最近の生活をつくづく振り返った。ひどいもんだった。すこしでも楽な仕事をと求めた新天地は天どころかむしろ獄、しかも鬼のような看守のいる獄である。座り仕事で腰は痛いし、締切という見えない怪物は毎週僕を追ってくるしもうだめだ、僕に漫画家なんて仕事は土台向いてないのだ。次担当に会ったらきっぱり言おう、もう辞めますと。きっとそうしよう。

決意を固め行き着いた近所の河川敷、短い芝生の上に腰を下ろしポケットから煙草を取り出した。ライターをカチ、カチ、幸福の一服肺を満たす。少年野球が精を出し、道ゆくおばさんたちが談笑をしていた。休日だ、しみじみ噛み締める。河原に来たのはたまたま足が向いたからだが結果よかった、ここは空も広くて心地がいい。ううん、大きく腕を伸ばした。肩をパキポキとやって近づいてきた野良猫に笑いかける。逃げられた。(むっ、失敬だな、きみは!)まあいいや、一本吸い終えて背から寝ころぶ。真上の太陽がまぶしかった。ひどくいい気持ちだ。この数日満足に寝てもいなかったからどっと睡魔が押し寄せる。陽気もいいし、貴重品の類も持ち合わせていないしいっそここでうたた寝でもしようか、そう思い目を瞑ろうとしたときであった。ガサリ、近い音とともに陰った視界、はじめ何が起きたかわからなかった。ぱち、ぱち、数度まばたいてわからないままでよかったと後悔した。(…発見が早すぎませんか、吉田氏)

真上からドンと見下ろしてる吉田氏を避けて身を起こす。振り返り、にらみつけた。

「吉田氏なんと言おうと僕は、「平丸くん」

さえぎられる。いつもより低い声に思わず気圧された。(あ、やばい、怒られ、)

「怪我、ない?」
「へっ?」
「倒れてたから、具合、わるいのかと思った」

よく見ると吉田氏は汗だくだった。まだ夏の前だというのに。髪型だってぐしゃぐしゃだ、なぜだか急にわるい気持ちになった。

あの、吉田氏が、いつだって冷静で僕なんか実験用のモルモットのごとく指先であやつってみせるあの吉田氏が、走ったのか。僕のためだけに周囲の目も気にせず髪振り乱して走ったというのか。

ハンマーで頭をしたたかに殴られたような気がした。呼吸を整えている吉田氏を見つめたままなんにも、言い出せなくなる。さっきまでの決意など春風に吹かれてどこかに消えてしまった。黙ったままの僕にしゃがみこんでいた吉田氏が膝をついてすこし寄る。その手が伸びたと思ったらまっすぐ、僕のひたいに触れた。

「吉、田氏?」
「熱、ないね」
「あっ、あ、えーと、その、あー、……元気です」

我ながらまぬけな返事だ。しかし吉田氏はほっとしたように肩の力を抜いた。そうして僕の腕をつかんで立ち上がらせる。帰って原稿しよう、僕の背をポンとたたく吉田氏の横顔を見上げた。今はもうアパートの方を向いている。しかたなく僕は吉田氏と並んで歩き出した。

とおくに少年たちの声を聞き、河川敷をゆきながら僕は吉田氏に聞いた。吉田氏僕が逃げたって、知ったときどんな感じでした?吉田氏はうん? と聞き返し、それからくしゃりと笑った。

「聞きたいこと、なんとなくわかるけど、俺はきみの"担当"なんだよ。担当っていうのは原稿の関係ないところでも作家を心配する職業なんだからさ、だからつまりなにが言いたいかって…きみが逃亡して一番に思ったのは締切の心配じゃなく、きみが無事でいるかどうかってこと」

僕はそれを聞いて、今度こそみっともなく泣いてしまった。うぐ、ぐう、嗚咽は汚く鼻も垂れたが、吉田氏はシャツの袖で拭う僕の肩に手をのせて黙っていた。その手はひどくあたたかくて僕はいっそう泣いた。シッ、見ちゃいけませんよ、言われてもまだ、泣いていた。

そうして僕は逃亡作家になった。


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平丸が逃げるのは吉田氏をたしかめたいからなのだと、件の号でおもった
時間軸見たいときキャラマンめっちゃ便利


(2010.1231)