平→←吉+平蒼

原作114ページ準拠の話です。
ネタバレを含む上、未読の方には伝わりにくい内容かと思いますので推奨しません。
また平丸→←吉田らへんをガッツリ捏造したので、114ページ純粋に楽しかったわ、という方にもおすすめしません。私の曲解が入っています。どんとこいなんでも読むわさんだけどうぞ。

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カーテンを開ける。予報どおりの晴天の手前には首を吊られたてるてる坊主が無残に濡れて頭をたれていた。かわいそうに昨夜は梅雨を象徴するような長雨だったからずいぶん頑張ってくれたのだろう、おつかれおつかれ、ベランダに出て、雨風にしんなりとしたてるてる坊主を解放してやるとマジックで描かれたラッコ顔はすっかりにじんでくたびれている。ありがとう、きみの犠牲は無駄にしないよ嗚呼爽やかな朝! ごきげんよう! 両手を広げ待ちに待った六月十二日に挨拶した瞬間ボタリ、鳥がわざわざうちのベランダの縁に落し物をしてかろやかに大空に飛んで行った。爽やかな形に開いた口がふさがらない。

気を取り直してトーストを一枚とコーヒーを胃に放り、シャワーを浴びた。風呂を出て着替えるのは気に入りの白のスーツとラッコのネクタイ、それから念入りに歯を磨いて時計を見る。十二時。約束の時間まではまだ三時間もあるのに落ち着かない。あんまり早く行っては相手にも失礼であろう、うろうろと意味なく居間をうろついてみては時計に目をやってしまう。誰かが見れば、いい年した大人がと笑うだろうか。笑われてもかまわない、僕は今日という日がなによりも、三十年生きてきてどの日よりも楽しみだったのだから。

そう、今日は僕の革命の日だ。この日のために約束をとりつけ新車を買い友人に根回しをしてきた。ずうっと待っていた。くすくすと背を伝う笑みをおさえきれない。はやく約束の十五時になって欲しいような、いつまでもこのわくわくを愉しんでいたいような、複雑な気分だった。ふと見れば携帯には新着メール、吉田氏から今日の集合の件だった。返事はせずにふたつに折る。そろそろ出かけようか、今日は一時間前にはお迎えに上がる予定だ。

さあ吉田氏、せいぜい見ていろ、僕の革命はここから始まるのだ。

* * *

おかしい。平丸なぜ返信しない。給湯室で本日数度目、携帯を開いたのにまだ今日のお茶会の件で出したメールへの返事はない。一度電話しようかとも思ったがあと一時間もある、たいした用事でもないしまあいいか、そう思い席にもどって仕事をした。

そうして三十分、山久の一言で事件が発覚する。部下は遠慮したが俺一人バイクに乗って集英社を飛び出る。最初に突き当たった信号を待ちながら、どうして自分はこんなにも慌てているのだろう、ふと疑問がよぎった。山久はいい大人の恋愛事情と身を引いた。俺だって担当とはいえど個人の恋愛にまで口出しする権限はない。だいたい漫画を描いてほしいだけなら蒼樹先生をうまく丸め込んで味方につけ、原稿を描いてくれなければ今後お付き合いしませんとでもひとこと言ってもらえばいいだけの話。俺よ、どうしてこんなにも焦っている。青信号はまだか。どうかはやく、はやく変われ、そうじゃないと俺は自分自身の行動を正論にできなくなるじゃないか。

ようやく青に変わった信号を走り出す。疑問は排気ガスとともに捨ててしまった。

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一時間前

蒼樹さん宅前で支度を待つ。携帯の着信は現在ゼロ、いまだ吉田氏に気づかれた気配はない。ティファニーを握りしめ信用できない担当のことを考えた。僕のためにシナリオを書く気など毛頭なかった担当、何度も蒼樹さんを餌に僕を釣った担当、意地悪な吉田氏、今日のことを知ったらどんな顔をするだろう。楽しみでしかたがない、くくくと笑っていると玄関の開く音がした。あわてて振り返る。ああ蒼樹さん今日もなんて素敵なんだ!「待ってないです!蒼樹さんを待っているのは楽しいのであっという間でした」

助手席にのせた蒼樹さんに問う。浮かび上がる吉田氏の結託の事実、僕は蒼樹さんに携帯の電源を切るよう懇願した。今日の計画のためには不可欠だった。不思議そうな顔をしたがうなずいてくれたのを見て車を走らせる。何度もシミュレーションに通った青山、ナビは頭にたたきこんであった。

* * *

平丸のポルシェと思って接近した車には福田くんとそのアシスタント、今日の平丸は一味違うと眉をひそめ、居場所がわかったときの連絡を頼みふたたびバイクを急がせた。

湾岸線、潮風がべたついて苛立ちが募る。しかし何に対する憤りなのかは定かでなかった。平丸くんが再起不能になること、それが一番心配だと福田くんたちには言った。しかしそれが本音なのだろうか。俺は自分の内に募る焦燥の意味を、まだ理解できずにいた。

* * *

オープンテラス、震える手で紅茶を飲みながら、他愛のない話でさえ緊張していた。蒼樹さんは僕のつまらない話にでも穏やかに相づちを打ってくれ、時に笑顔まで見せてくれる。告白しよう、何度も思ったが恥ずかしくってなかなかできない、苦し紛れにもう一度カップを口に運んだ瞬間ハッと目が合った。対抗車線飛ばす見慣れたバイク、鬼のような形相をした男、本能的に僕は立ち上がった。「マスター勘定はここに…釣りはいらない」

車に飛び乗り街中を逃げながら、僕はなぜか、ひどく高揚していた。サイドミラーには目を光らせた僕の担当、必死に僕を追いかけている。堂々と速度違反しているから向かい風がつらいのだろう、唇を噛み締めていた。そんな顔を見るのは初めてでどうにも気が昂ぶった。追いつかれそうになり車を捨てて蒼樹さんと逃避行。気遣いながら歩道橋を駆け上がり、見下ろすとバイクを下りた吉田氏が見上げていた。平丸くん逃げても無駄だ! どこの刑事ドラマだといいたくなるような台詞、僕は大声出して聞いた。

「何であんた追いかけてくるんだ」

吉田氏はなんでそんなことを聞くんだとでも言いたげな顔、心配だからに決まってるだろ、叫んだ。嘘をつけ、そこから数メートルの高さ挟んで人目も気にせず本音を言い合えば、吉田氏は自分の嘘偽りを認めしかも君はニ、三年に一人の逸材だなどと抜かしはじめる。そして僕を見上げ息せき切らせた担当は何を思ったか僕の才能に惚れたなどと抜かす。僕は腰を抜かしてしまった。狼狽を隠すようにこれまで苦しかったこと、よろよろと口にする。吉田氏が一段ずつ階段を上ってくる足音がする。「あんたにわかるか! 今日という日は僕の人生で一番幸せな一日だったんだ!」

* * *

たたきつけられた言葉からはとなりにいる女性への気持ちがひしひしとつたわってきた。悲痛な顔をしているのは平丸くんなのに、なぜだか俺までつらくなる。よく考えるんだ、平丸くんを説得した。今日の幸せのために漫画があったこと、順を追って冷静に、つとめて冷静に話してやる。そうだ、俺も落ち着くんだ、ここはなんとしても平丸くんを次の連載につれていくことが大事、編集者としての自分が自分に言い聞かせる。連載を確約させた上で告白を止めればいい、そうすれば蒼樹先生のヒモになることも再起不能になることもない、そうじゃないか。

俺の説得にやはりやすやすと応じた平丸はしかし、今回ばかりは諦めなかった。それが俺の判断ちがいだった。

平丸くんは俺の目の前でなんともみっともなく、ぼろぼろに泣きながら蒼樹さんに告白した。世界が止まった気がした。断れ、断ってくれ、あれだけ玉砕を心配していたはずの俺は、なぜか、強くそう願っていた。蒼樹さんがティファニーを手に取り微笑む。平丸くんがやったよ吉田氏、抱きついてきた。俺はただただ衝撃で、頬に鼻水が押し付けられるのを感じながら、その場に立ち尽くしていた。

* * *

夕陽を背に浴びながら、吉田氏とふたり家路を歩いていた。乗り捨てた車はレッカーされ、吉田氏の後ろに乗って帰ってきたが僕がその背中を鼻水でぐしゃぐしゃにしてしまったため途中から徒歩に切り替えたのだ。

告白したときから流れ出した涙は未だ止まる気配がない。バイクを引きずりとなりを歩く吉田氏は僕に二の腕を引っ張られながら、ハアとため息をつく。そして住宅街の真ん中、不意に立ち止まった。つられて僕も立ち止まる。空を見上げた吉田氏はぽつりと言った。

「…なんでかな、蒼樹さんがうなずいたとき、目の前が真っ白になったんだよ」
「え、」
「人にはさ、平丸くんがヒモになったり、フラれて再起不能になったりするのが心配だからなんて言ってたくせに、本当は誰より、ことわられるのを願ってた。…ごめんな、平丸くん」
「吉田氏、なんで、」
「きっと俺は、君をずっと好きだったんだと思う」

ぽかん、口がひらいて鼻水と涙だらけの顔によだれまでたれそうになった。慌ててとじると吉田氏がハハと笑う。

「ごめんな、シナリオを書かなかったのも、裏で手を回したのも、お茶会のときわざとダージリンと言ったのも、たぶんそのせい。俺内心で、平丸くんをとられるのがいやだったんだろう、今日追いかけながら考えたよ、なんでいつだって追いかけてるのかって。…漫画が読みたい、それは本当だ、最初に惚れたのは君の才能、これも本当、でもきっと一番、単純に、ただ顔が見たかっただけなんだと思う。…勝手な編集で、ごめん」

どうして吉田氏が空を見上げたのか、僕はようやくわかった。細い目は涙を、震える口は嗚咽をこらえている。吉田氏は泣きそうなのだ。僕はそれを見てようやく自分の涙の理由を悟った。

たぶん僕も、吉田氏のことが好きだった。今日あんな風に計画を立てたのは、邪魔されたくなかったからじゃなく、本当は〆切のない日に僕を追ってくれるかどうか見たかったから。あれほど幸福に感じたのは吉田氏がこんな僕に一日を捧げてくれたから。今まで漫画を描くのをつらいと感じていたのは吉田氏がなんで僕を追いかけるのか、漫画のためなのか、僕のためなのか、その理由がわからなくてもどかしかったから。だから一番聞きたかったのはなんで追いかけてくるのかということ。そしてとっさに嘘をつけるほど器用な人間じゃない吉田氏が口走った「心配だから」はきっと嘘じゃない。僕はそれが聞けたのが嬉しくて、泣いたのだ。

そして泣き止めないのは同時に終わりを知ったから。吉田氏は僕を、好きだったと言った。そして僕も、吉田氏が好きだったと気づいた。気づいたときには僕らの恋は終わっていた。ひどくまぬけで鈍感な僕らの終末。僕は笑いながら泣いた。吉田氏もとうとうこらえきれなくなってわんわん泣いた。空を見上げたのに一向に止まる気配はなかった。通り過ぎるおばさんがけげんな顔をしていたけど僕らはそのまましばらく泣いていた。

夕空が夜に呑まれはじめた頃、鼻をすすりながら吉田氏が言った。帰ろうか、平丸くん。気に入りのスーツの裾をすっかりダメにした僕ははいとうなずき、僕らは今日だけ夜闇に紛れ、手をつないであるいた。

蒼樹さんを好きな気持ちにひとつも偽りはない。綺麗な人だと思うし、一緒にいると緊張するけど、その緊張さえ楽しく感じられる。僕はきっとこれから蒼樹さんにもっともっと恋をするだろう。しかしどんなときだって吉田氏に抱いたこの感情が消えることはないと思う。そばにいたっていなくたって、ただ吉田氏のことを大切に想う、これはたぶん一般的に愛情とか呼ばれるものなんだろう。言葉にするといささか気恥ずかしく、悔しい心持ちになるから腹いせに吉田氏に言ってやった。

「…ねえ、吉田氏」
「うん?」
「わざとダージリンって嘘ついたんですか」
「………いやほら、あやまったじゃない、さっき」
「……………」
「夕飯平丸くんの好物つくってあげるから! ね?」

(ふん、そんなことに釣られる僕と思うなよ! ハンバーグが食べたいです!)


(2011.0105)