湯気立てるマグをあちちと持ちかえながらパーティションの向こうにもどると、振り返った上司は気が利くじゃないかと笑った。ひとのわるい笑顔には妙な迫力があり、じぶんの分ですけどという主張は湯気に紛れてきえた。かなしき縦社会。

無言で差し出しまた給湯室に足を向けると背後、砂糖多すぎ、身勝手な文句が聞こえた。じゃあじぶんで入れたらいいものを、文句を言いかけたが彼の机の上、いつになく高い資料の山が積まれているのを見てやめる。そもそも普段なら好みのコーヒーを自己流ブレンドでいただく人が、わざわざ後輩のマグを奪うなんてよほど忙しいのだろう。そう思って、コーヒーをもう一度入れ直す。あとで差し入れでも買ってこようかなと思った。

けれど僕の仕事が片付く前に、吉田さんは向かいの席を立った。パソコンから目を上げ終わったんですかと尋ねると、あわただしくマフラーを巻きつけながら、捕獲、と短い返事。対象は聞かずともその険しい表情に予想がついた。

(…また、平丸先生か、)

ただでさえ今日は忙しそうなのに、逃亡者の面倒まで見ないといけない吉田さん、気の毒を通り越して、僕は腹が立った。どこまで吉田さんに苦労をかけるつもりなんですか、言えたら楽なのに。苛立ちに唇噛み締めていると、パッパと荷物をまとめた吉田さんが苦笑した。

「お前がそんな顔してどうすんだよ、人の心配する前に自分の心配しとけ」

いかにも先輩らしくそう言って、吉田さんはお疲れと付け足しそそくさと出て行った。

残された編集部では吉田も大変だよな、同情の声やら、噂に聞いた平丸先生の武勇伝やらが語られる。僕はマグを持って、席を立った。


人のいない給湯室に入るとようやく落ち着いて息が吐けた。余裕のないじぶんの顔をうっかり誰かに見られるのは、ご免だった。ドアに背をもたれ、ずるずると。室内は薄暗く、乾燥した冷たさが横たわっていて、すっと肩の力が抜けた。マグを抱いて座り込む。

平丸先生に振り回される吉田さんを見るのは、いたたまれなかった。ひとつの班を抱え下の面倒も見てやりながら自分の担当する作家の世話もする吉田さん、きっと僕の何倍もいそがしい。それにくわえて手のかかる平丸先生の捕獲、護送、監視。…頭が痛くなってくる。

腹立たしいのは、吉田さんを困らせていることにほとんど悪びれていないらしい、平丸先生だった。平丸先生は、逃げれば吉田さんの追いかけてくるのはあたりまえ、腹が空けば吉田さんがなにかしら準備してくれ、原稿が終わらなければ泣き言をぶつけてもいいとおもっているのだ。何度か編集部に来ているのを見たこともあるし、吉田さんのたまにもれる愚痴からも想像はついた。そうしてそのたびひどく、いらいらした。

今頃吉田さんは電車に飛び乗って、どこかの駅に向かっているところだろうか。今日も心当たりの場所を何箇所もスニーカーでめぐるのだろうか。やるせなくなる。みしり、握ったマグは心細い音で鳴いた。


けっきょくなにより嫌だったのは、じぶんだった。
所謂、自己嫌悪だった。みっともなく吉田さんに勝手な憧れめいたもの抱き、吉田さんを振り回すことのできる平丸先生をうらやみ妬む、どうしようもなく矮小な僕だった。成り代われることなどありえないのに、じぶんが平丸先生だったらなどと何度も考える情けない、僕だった。
立ち上がる気力がわいてこない。もどってもおそらく仕事は手につかない。さいていだ。このバカ久、公私混同してるんじゃない、吉田さんの声が聞こえてくるようだ。(…ごめんなさい、吉田さん)


そのとき不意に電話が呼んだ。みじかい三回の振動にのろのろとポケットから取り出してみれば、くだんの上司からメールが届いている。本当に叱咤のメールだったらどうしよう、内心で冷や汗をかきながら開けてみると、それはまったく関係ないひとことだった。

『わり、明日ちょっと早めに来られるか?』

だいじょう、ぶ、です、よ…送信。吉田さんからの返信はすぐだった。

『今日どうしても終わってないとこあるから、ちょっと手伝ってもらってもいいか?』

青白い画面ひらいたまま、しばらく、固まっていた。それからはっと気がついて、Re;無題。次に送られてきたひとこと、『ありがとう』には妙なセンスのくじらの絵文字が添えられている。どうも電車の乗り降りかなにかで、バタバタしていたとみえる。なんかかわいかった。

小さく笑って携帯折りたたみ、尻ポケットにしまう。あれだけ重かった腰はおどろくほどに軽く、僕はすっとその場に立ち上がった。インスタントコーヒーを手に取りてきとうに落として、ひとくちだけ残されすっかり冷えたコーヒーの上にあたらしく注ぐ。コポコポと上がるしろい湯気でようやく、身体の冷えこんでいるのに気がついた。風邪を引いてはこまる、明日、来られなくなってしまう。心地よいひややかな静寂を出て、電話やら相談やらで騒がしい編集部にもどる。蛍光灯はまぶしかったが、おかげで目の覚めるような気持ちだった。


僕はようやく気がついた。
平丸先生に、なりたかったわけじゃなかった。吉田さんを振り回したかったわけでも、なかった。
ただ吉田さんの思考の、一部にいたかった。たとえば旅先で、そういえば今頃どうしているだろう、土産でも買っていこうかなと考えるような、あるいは眠る前に、今日はこんなことを言っていたなとうつつに思い出すような、そういう一部。(ささやかだけれどそれって、けっこう、大きなことだとおもう)

もらったメールは、すこしでも吉田さんが僕をたよりにしてくれているように思えてひどく、うれしかった。たとえ平丸先生ほどではなくてもほんのすこしは、僕を気にかけてくれているのだ。じゅうぶんなことではないか。

あした会ったら栄養ドリンクでもあげようかと考えて、それから思い直す。砂糖がおおいと言った吉田さんに、あしたはうまいといわせてやるのだ、そうだ、それがいい。

(そうしたらもしかして、僕の重さが一ナノグラムくらい、増えてくれるかもしれないから)

++++
もう山吉はぜんぶ81さんに捧げるつもりで書いてる
次は余裕ある山久に挑戦します

(2009.1216)