改札に触れようとした手、ふと止まる。あっ、思わず声に出して、となりの改札を過ぎようとした彼が振り返った。

「…あ」

山久、呼ばれようとした名前はひで途切れ、彼は慌ててあとずさり、うしろにつづいていた通勤中の人々に道をゆずった。僕もそれでようやく気がつき横に退く。迷惑そうなサラリーマンの波が過ぎる。中には露骨に僕をにらむ男性もいた。どうも、すみません。いくらか落ち着きをとりもどした改札で、僕はあらためて彼を振り返った。

「すみません、…吉田さん」

会釈すると細目で彼は僕をにらんだが、僕がわるびれないのをみて諦めたようにもう一度、改札を通り抜けた。あけましておめでとう。思い出したように吉田さんがいう。はい、…はい、おめでとうございます、僕が間の抜けた返事をすると上司はわらう。おまえコタツに頭置き忘れたんじゃないのか。(ちがいます新しい年で、最初の日に吉田さんに、…とは、とてもいえない)

上昇するエスカレータと反比例して、気温はどんどん下がってゆく。さむいさむい、ジャンパーの首元、ファスナーをギリギリまで上げながら、前の段、吉田さんの背を見上げた。広い背、黒のコートに灰茶のマフラーゆるく巻かれ、上方からのゆるやかな風にゆらいでいた。ラフな格好が多いからたまにかっちりしたコートなど着ているのを見るとずるいなと思う。友だちにもらったとかいうだっさいTシャツを真顔で着てくる日も、忙しくてろくに着替えてない日もあるくせに。(だいたい好きな相手のギャップというのはどういう差異であれ、ぐっとくるものがあるのだから、ずるい)

視線に気づいたのか吉田さんは、エスカレータ下りると僕を見た。僕はなんだかいけないことをしたような気がして、慌てててきとうな話題を振る。

「吉田さん、正月はどうしてたんですか? 実家?」

聞くなり、ぱっと表情が暗くなった。あれ、とおもっていればゆっくりと、階段に足をかけながら疲れた顔で吉田さんはいう。

「…正月もなにも、あったもんじゃないよ、ひどいはなしだ、…悪夢のようだった」

細目に宿る疲労、僕はすぐにその原因を悟った。(ああ、こんなこと、聞くんじゃなかった…)

年末からあのバカに呼び出されて吉田氏! 吉田氏大掃除です! なんで俺がと思いながら床磨いて窓拭いてゴミ捨てて、そしたらあのバカ馬鹿のくせに風邪引いて年越しで看病して、おかげで実家でぬくぬくする予定はパア、近所の初詣まで付き合わされてようやく昨日、自宅に帰ってひとりさみしく蕎麦食った。

真冬の寒さ帯びた口調で切々と語り終えたときにはもう僕らは階段をのぼり終えていた。

見慣れた靖国通り、今日は一段と冷える。すぐ左の角を曲がって喫茶店の前をとおりすぎ、信号まであるいて立ち止まる。四車線、運悪く歩道は赤に変わったばかりだった。タイミングのわるい、早くかわれよ、とけっこう切実におもう。そうしないとあやうく、一週間ちかく吉田さんを拘束していた彼に、嫉妬とおりこして憎しみめいたものが芽生えてしまいそうだったから。

感情の発露したごとく、ぐしゅん、僕はひとつ、大きなくしゃみをした。信号待ちしていたうちの数人がちらりとふりかえる。ちょっと恥ずかしい。

「風邪か?」
「え、…ああ、そういえば去年仕事終わった途端に引いちゃって。もう治ったとおもうんですけどね」
「なんだおまえもか、気をつけろよ」
「はい」

吉田さんはかるくうなずいて、信号をちらりと見た。長い赤はまだかわるようすがない。いいかげん鼻が冷えてきた。ジャンパーのポケットにつっこんだ両手をむしゃくしゃと動かしてみるけれど、やはりかわらない。さむい。

水面下でのそんな足掻きに気がついたのかどうか吉田さんが不意に、首に巻いていたマフラー外して僕に差し出した。

「おとしだま」

え、いいんですか。って、顔をしていたんだとおもう、たぶん。吉田さんは鼻をすすりながら注釈を加える。

「会社までだからな、ただでカシミヤのマフラーがもらえるほど世の中はあまくない」

はくしゅっ、今度は吉田さんがくしゃみをした。ほらさっさと巻けよ、とっても寒そうな顔で吉田さんがいう。僕はわらいを噛み殺しながらお礼を言って、受け取った。やわらかいカシミヤはまだ新しく、すこし躊躇しながらゆるく、首に巻いた。顔をあげるともう信号は青に切り替わるところだった。僕はこの寒さが一秒でもながく、つづけばいいのにと、おもった。


「そうだ僕初詣まだなんです、今度つきあってくださいよ」
「はあ? 男ふたりで行ってもむなしいだけだろうが」
「男ひとりじゃもっと空しいじゃないですか」
「…しょうがねえなあ」

(大丈夫、僕はこころやさしい紳士ですから、世界平和をお願いします。吉田さんが平丸先生の担当を外れますようになんて、願ったりしませんよ。…たぶん)




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山吉山祭に寄稿